「幸せって他人の犠牲の上に成り立つものですよね?」
ずいぶん昔になるが、日本で普通に生活していた頃、後輩K君が突然つぶやいた。
Kは超イケメンのくせに頭が良く鋭い洞察力を持っていた。
私はそれに対しどうコメントしたか全くおぼえていない。
先日突然陥没した博多駅前の穴が3日で埋まり、1週間後には普通に通行できるようになった。
日本人の大好きな”海外の反応”
・アメリカじゃ無理だな!
・効率性ってのは日本人の血の中に流れているものだからな。
・冗談だろ!?48時間ってありえない。ベルリンでパイプが破裂したら2か月たってもまだ工事してるぞ。
・ニューヨークもこういう対応の早さがあればいいのに。2nd Avenueの地下鉄工事なんて2007年からやってるわ。
・ドイツで道路工事があったらしばらく信号が正常に動かないからな。そして修理完了までに1年半ぐらいかかる。
・ニューイングランドの道路なんてひび割れてでこぼこよ。なんにしろ良い仕事ね。アメリカより。
私も日本人の端くれとしてこの出来事を物凄く誇りに感じる。
まるで何事も無かったかのように平然と通行する車と人々。
芸術的なレベルでの復旧劇。
博多の街に平和が戻ったのだ。
しかし、24時間体制で突貫工事をやり通したという事は大きな犠牲だ。
中には任務を慣行するため、親のパタイ(人間の最後に訪れる儀式)に目にも会えなかった人がいるかもしれない。
日本の発展は個人の犠牲の集まりな気がする。
日本のコンビニで100円の物を買うのに費やされるスタッフの過大なサービス。
フィリピンでは余裕で五つ星ホテルのレベルを超える。
客の快適もスタッフ個人の犠牲なのだ。
世の中、誰かが幸せになると誰かが不幸になるというゼロサムなのだろうか?
フィリピンという成功と犠牲の存在が歴然とする国で暮らし、K君の犠牲の法則を意識せざるを得ない。
富める者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなる。
一人の富裕層の幸せは千人いや1万人の貧困層の犠牲で成り立つ現実。
犠牲の存在を隠蔽する日本社会でさえ近い将来隠せないほど溢れ出すのか?
美味しい幸せ!とか言いながら食べているステーキも動物の犠牲だ。
日本人は食べる前に”頂きます”と言う。
犠牲になった動物や植物の命を頂くという意味だ。
食べた命は自分の中で継承されなければならない。
感謝とは犠牲を意識すること。
せめて日曜日は犠牲を少しだけ意識しつつかみしめながらゆっくり歩き、ゆっくり食べたい。