【第1話】復讐の引き金 - フィリピン育ちの娘が日本で英検に挑む理由
屈辱の個人面談
小学校4年生の個人面談。
あの日が英検受験エピソードの始まりだった。
「論理的理解力が薄いですね」
教師の何気ない一言が、俺の心に深く突き刺さった。
カチンときた。いや、俺の心の奥で怒りの炎が燃え始めたのを感じた。
フィリピンで生まれ育った娘。
日本語という母語でもない言語での授業を一生懸命受けて3年目。
頭の中の思考は常に英語という状況で、理解力や論理性を簡単に評価してほしくない。
イラつきながらも平静を装えた。
ふふふ、俺も随分と年を取ったらしい。
じゃあ、日本人が最も苦手な英語でガッツリ見返そうではないか。
そうさのぉ、小学生の英語力判定といえば英検か。
復讐の方法は決まった。
やるなら徹底的に。
ターゲットをワンショットワンキルで仕留める。
落ちたら9,100円もする受験料がもったいない。
これは完全に俺の仕事として全面的に合格を請け負う覚悟ができていた。
別名"親のエゴ"。
戦いはここから始まった。
セブ島からの逃避行
娘はフィリピンのセブ島で生まれ育った。
母親はフィリピン人で父親は俺(日本人)という標準的スタイル。
37歳で移住した俺は、縁あって山深いジャングルにある最下層のコミュニティで生活を始めた。
※別に小野田少尉にあこがれていたわけではない。
詳細はモトボサツ勝手にブログセブ島編参照。
日本人と中国人に違いさえ分からない現地民の中で生きるにはビサヤ語という濁音だらけの強烈な現地語をマスターしなければならない。
郷に入れば郷に従う。
サリサリストアという現地のマイクロ雑貨店をやりながらビサヤ語を覚えて行った。
2年後のある日、俺は山を下り街へ出た。
何が楽しくて住んでいるのかわからない謎の外国人たち。
生活していくなかで英語でのコミュニケーションが避けられなくなった。
大学受験の科目として仕方なくやった英語の世界へ再び足を踏み入れた。
だが、英語と現地語を使い分ける生活で気づいたのは、英語の方が圧倒的に語彙や思考レベルが上だということ。
クウネル遊ぶレベルの会話ならビサヤ語の方がむしろ便利なのだが、少し利害が絡むような話となると限界が低い。
「英語で育てたほうがいい」
現地の子育て先輩は迷いなく言った。
俺と妻は決めた。
娘の前ではビサヤ語禁止。
英語脳で生活させる。
娘にとってフィリピン生活のすべてが英語だった。
学校も、友達との会話も、思考そのものも英語が基盤となっていた。
そんな平穏な日々を打ち砕いたのは、コロナパンデミック。
周りでどんどん人が亡くなっていく。
医療プアレベルな国なのに富裕層や外国人には容赦なく高額請求を浴びせてくる。
選択の余地はなかった。7歳の娘を連れて、日本への移住を決断した。
再びの荒野
夏休みが終わり、後期が始まるタイミングでの編入。
新しい環境への不安は計り知れなかった。
日本語が話せないハーフの娘がいじめに遭うのではないか。
授業についていけず自信を失ってしまうのではないか。
慎重に選んだのは、福岡市内で日本語クラスが併設されている小学校。
外国から来た子どもたちへの日本語サポート体制が整っていることが決め手だった。
経済的には厳しい選択だった。
いつでも学校からの呼び出しに対応できるよう、定職に就かずシフト調整で自由になるバイトを掛け持ちする生活。
だが、娘の適応期間を支えるためには必要な決断だった。
冷酷な現実分析
予想通り、娘の授業理解度は日本人の子どもたちに比べて低い。
避けられない現実である。
算数の文章問題も、社会科の説明も、すべて日本語での理解が必要だ。
しかし、娘には明確な強みがあった。英語力である。
日本語字幕なしで英語の映画やドラマを普通に観る。
週末のロブロックスゲームで他国の人間と英語でコミュニケーションを取りながら楽しんでいる。
日本のそこそこのレベルの大学生でさえこのレベルには到底及ぶまい。
この強みを活かし、自信を持たせる方法。
それが英検受験という選択肢だった。迷いはなかった。
ターゲット選定の冷徹な判断
10歳の4年生が受験する英検の級として何が適切なのか。
一般的な小学生であれば英検5級や4級からスタートする。
しかし、娘の場合は境遇が異なる。
インターネットで同様の境遇にある子どもたちの情報を収集。
フィリピンで生活していた経験のある子どもたちの英検受験結果を参考にし、様々な体験談を分析した。
データは嘘をつかない。
その結果、娘の英語力を考慮すると英検2級から挑戦することが妥当だという結論に達した。
高校卒業程度の英語力が求められる試験。
10歳の子どもが挑戦するには相当な難易度。
だが、これが復讐への最適解だった。
復讐の方法は決まった。
ターゲットは英検2級。
ワンショットワンキルで仕留める。
戦いの準備は整った。
つづく