神父VS牧師
前回のプロテスタントのフィリピン人の特徴に引き続き、今回はカトリックの人がなぜプロテスタントの人の事を「クリスチャン」と呼ぶのかを検証し結論を出してみたい。
まず神父と牧師という紛らわしい指導者の違いから整理してみよう。
カトリックの指導者 | プロテスタントの指導者 |
神父 priest or father | 牧師 pastor |
結婚できない | 結婚できる |
男性のみ | 性別問わず |
とても偉い | 一般人と同じ |
ミサを行う | 礼拝行う |
聖職者というカテゴリー | 教職者というカテゴリー |
映画エクソシストの黒服は神父、牧師?
超大ヒット映画エクソシストに出てきた黒服を着た人は神父なのか牧師なのか?
映画のタイトルとなっているエクソシストとは、英語で"悪魔払い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師"という意味である。
従って映画に出てきた人は神父なのだ。
カトリックvsプロテスタント
日本人目線で感じる大きな違いといえばまず場所。
カトリックはお化けでも出そうな数百年経つ古い伝統的教会に集まりミサを行うが、プロテスタントは場所にこだわらずカンファレンスルームのようなところで行われる。
フィリピンカトリックの場合は厳粛なミサというよりもサンダルにジーンズの上に無理やり司祭服を着た神父がマイクを握ったまま熱唱するオッサンのカラオケ大会みたいになるイメージが強い。
上の一覧表にもあるように、カトリックは偶像が大好き。
セブの場合、キリスト像、マリア像、サントニーニョ像などの塗装が剥げまくるまでペタペタ触って謎のパワーを得られるといういかにもザ宗教的といった世界観だ。
セブ島のサントニーニョ教会では参拝または観光客が聖堂内にあるマリア像の手を触りすぎて塗装はすっかりハゲて、手首から先もぶらぶらになったので、「触るな」という注意書きが貼りだされたくらいだ。
教会と偶像と儀式にこだわるカトリックに対し、プロテスタントは場所や儀式は二の次で聖書に基づいた教えだけに意識を持つ。
一覧にもある手で十字をよく切るカトリックに対して十字を切らないプロテスタント。
ボッタくりタクシーの運転手でも教会の前を通りすぎる時に十字を切る姿が非常に意味不明で非常にショックだった。
またセブ島のSMモールでは定刻が来たら客もスタッフも同時に立ち止まり祈りをささげるのだが、まるで動画の一時停止のようで面白い。
そんな中でも歩き回っているのがプロテスタントとムスリムと外国人なのだ。
カトリックがプロテスタントをクリスチャンと呼ぶ理由
教会と偶像と儀式という形式ばったシステムに乗っかることがカトリックの神髄だとすれば、プロテスタントは聖書の中を理解し、シンプルに神のみを意識する。
つまり余計なことを出来るだけ排除した聖書研究会という立場だ。
カトリックの人は自分がカトリック信者ということ自体にこだわりを持っている感じだ。
カトリックという信仰というよりもカトリックという名のイベントに参加しているという意識が強いため、神よりもカトリックというパッケージそのものに意義を感じ宗派への帰属意識が非常に強い。
一方、プロテスタントの人は真逆で神と聖書に関して意識は強いが、自分がどの団体に所属しているかという意識は薄いので胸を張って自分は「プロテスタントだ」という言い方をする人は少ない。
ただ、イエス・キリストに賛同する人間である個人的な感覚なので、教会といえどもたまたまた同じ考えの人達が集まり、礼拝をささげているという個人主義の集まりだ。
つまり、カトリックの人がプロテスタントの人の事をクリスチャンと呼ぶのはカトリック以外の異端という意味があり、古よりの儀式を蔑ろにし聖書にさえ従っていれば良いという人たちだという皮肉を込めた呼び名なのだ。
麻生元首相はカトリック信者だが、「私はカトリックだが、クリスチャンじゃない」という発言をしたのはあまりにも有名だ。
さいごに
私はここで散々儀式的なカトリックへの皮肉めいた書き方をしてきたが、実は儀式的なことが大好きだ。
悪霊漂う呪われた古いエレベーターの中では憑依されないように真言密教の九字を切り「ノウマクサーマンダーバーザラダンセンダーマーカロシャーダーソワタヤウンタラターカンマン」と不動真言を一息に唱えるのだ。
また嫌いな場所の前を通りすぎるときは「南無」と心の中で呟く。
近代的かつ合理的なプロテスタントよりも古代的な神秘的カトリックの儀式主義の方が心の底では好きな気がする。
フィリピンをフィリピンたらしめているのはカトリックの保守的なマインドコントロール。
これは私の中では確信となっており、そこが日本とはアジア最後の秘境フィリピンの魅力であると結んでおこう。
もしこの記事をお役にたったらランキングの応援クリックを1回グリっとお願いします?