フィリピンに「遺書」という文字はない
フィリピン人に「フィリピンって自ら自分の存在を消す行為者が少ないよね」と言ってもピンと来ない。
治安が悪い国でわざわざ自らパタイ(人間の最後に訪れる儀式)ぬこともないという事もあるのだろうが、そもそも自ら自分の存在を消す行為という概念が薄い気がする。
ちなみにビサヤ語で「遺書」という言葉はないし、朝のニュースを見ても他殺は毎日のようにあるが自ら自分の存在を消す行為報道は見たことがない。
日本に住んでいた時は閉塞的にドメスティックだった。
クローズされた日本のなかで自分らしさをどう維持するか。
それが1年中の課題だった。
しかしフィリピンという変な国に住み始めて改めて日本という国を見ると良い事も悪い事も客観的に見える。
はじめてフィリピン人が日本へ旅行へ行くと必ず言うのがこれ。
治安の良さ、清潔さ、親切さ。
街のコンビニから高級ホテルまですべて、時給の割合に関係なく最高の笑顔とサービスが受けられる驚愕の国だ。
できれば日本に住みたいとさえ言う。
しかし、それはあくまで表面的な結果論であり、日本人が生まれつきDNA的におもてなしを心の底からやりたくて仕方がないのではなく、そこには見えない自己犠牲文化の賜物なのだ。
太宰治の二十世紀旗手という小説の中で有名な「生まれてすいません」。
小説の内容は別としても、この「生まれてすみません」は日本らしさを象徴する。
ゼルのスマホ画面
一方フィリピン人の特徴を究極的に言うならばこれだろう。
自己愛の塊!
誰がなんと言おうと自分を肯定し正面からガッツリ愛せる。
雇い主の財布から数千ペソくすねても、自分を肯定できる強さ。
しかし、皮肉にもこの自己愛こそが治安の悪さ、不潔さ、身勝手さの根底となっているのも否めない。。。
つい先日、うちで働いて居るリゼール(以下ゼル)の携帯が目に入った。
スマホの背景は自分の最高のキメ顔!
これでも「写真うつり最高ですね!」
と言いたくなるほど本人離れしている。
ゼルはバコロド生まれで10人兄弟姉妹の中の長女。
現在31歳で子供5人。
日本人ならスマホの背景画像は自分じゃなく子供だろう?
アメリカの映画では恋人や家族の写真がよく出てくるが、自分の写真が基本設定なのはフィリピン特有の現象。
これはゼルだけの特異現象ではなく、フィリピン人は基本的に自分応援団なのだ。
逆に自分に自信の無い”控えめなフィリピン人”はここでは変な人という位置づけになる。
以前大学の授業中に聞いてみたことがある。
「君たちのボールペンの握り方って誰にならったの?」
「自分の書きやすいようにやっていいと言われました」
つまり型のある基礎から応用という日本の常識は存在せず、自分の意思優先。
ネイチャーな世界は自己愛に溢れるのだ。
フィリピンでは犬も猫もヤギも豚も鶏も自分大好き!
まとめ
私が人生に対して後悔が残りそうなことは沢山ある。
やりたい放題の人生に見えて最も足りないことは自己愛だった。
太宰治ではないが、「生まれてきてすんませんな」と正直何度思ったことか。。。
そういう育ち方をした。
以前は自分を愛せないことで親を恨んだこともあったが、フィリピンで生活しているうちにどうでもよくなった。
親もその親から受け継ぎ、その親も親や周りの環境から受けたことをリピートしているだけ。。。
だから私はこの自己犠牲の輪廻を私の代で止めようと思う。
自分のカワイイちゃんには毎日「生まれてきて有難う」といつも言っている。
誰がなんと言おうと自分応援団になる人間になることが親として最高の財産を子供に与えることになるのだ。
しかし、もちろん、今のフィリピンを象徴するような虚栄に満ちた自己中心的な存在ではなく、他人に譲れるような存在になって欲しいと同時に願っている。
その両立にはやはり高度な教育が必要だな。。。
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