モトボサツです この記事を読んで1㎜でも幸せになって頂けたら幸いです よかったらボサツの応援クリック1回お願いします
2013年~2016年 モトボサツ勝手にブログセブ島編 カテゴリー別
-
【シーズン1】モトボサツ勝手にブログセブ島編|カテゴリー別記事
モトボサツです この記事を読んで1㎜でも幸せになって頂けたら幸いです よかったらボサツの応援クリック1回お願いします に ...
続きを見る
セブ島で起きた日本の歴史「海軍乙事件」
海軍乙事件
日本人として知っておきたいセブ島に関わる日本の歴史#海軍乙事件 昭和18年12月24日、一隻の陸軍輸送船が門司港の岸壁を離れた。任地はフィリピンビザヤ地区のセブ島
書籍詳細▶️https://t.co/4vqfJ8vsMr#モトボサツ30秒朗読 #セブ #フィリピン pic.twitter.com/kFi1oI9INa
— モト ボサツさん@国籍間違われた (@motobosa02) January 27, 2021
私の住むセブ島を舞台にした小説といえば「虹の谷の5月」が有名だが、その他に「海軍乙事件」というノンフィクション戦争小説がある。
どちらも友人F氏から借りたもので、「海軍乙事件」というタイトルの本は吉村昭著(文春文庫)の物であった。
第二次世界大戦末期の出来事を描いたノンフィクション小説で、著者は終戦後の生存者に直接インタビューを重ね、登場人物の発言内容や雰囲気を忠実に描写している貴重な資料である。
いまごろ戦争ネタ?
と思われるかもしれないが、戦争は忘れた頃にやってくる。
人々の記憶に常に残すことこそが世界平和の基本であろう。
ところで、セブ島といえば、今でこそトロピカルな楽園リゾートとして知られ、コロナ直前までは実に多くの若い日本人が語学留学に訪れていた人気スポットだ。
今から70年以上前、多くの日本兵が命がけで戦い散った暗い過去はあまり知られていない。
実際、グーグル検索で「セブ島」と入力してみると、語学留学、ダイビング、夜遊びの情報のみで溢れ、戦地を彷彿させる記事はどこにも見当たらない。
今回、「海軍乙事件」に関する記事にて埋もれさせてはならない史実のアピールに貢献出来たら幸いである。
3分で分る「海軍乙事件」のあらすじとポイント
第二次世界大戦末期、大日本帝国の直接的敗因を作ったと言っても過言ではない海軍史上最大級の不祥事事件が起きた。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」 の名言でお馴染みの連合艦隊長官「山本五十六海軍大将」の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本長官が戦死した。
前線を視察中の出来事であったが、ウィキペディアにはアメリカ側に動きが傍受され待ち伏せされていたと記されている。
それを海軍甲事件と呼ぶ。
その後、山本長官の後任として就任した古賀峯一氏の乗った飛行艇がパラオからダバオの移動途中で低気圧に遭い消息不明となり殉職扱い。
それを海軍乙事件と呼ぶ。
しかし、連合艦隊司令長官の死亡だけではなく、日本軍の存亡にかかわる重大な失態が含まれているのだ。
1941年に勃発した太平洋戦争は、真珠湾攻撃を皮切りに、当初日本軍が有利に展開していたが、1944年には完全に形勢逆転となっていた。
トラック島にあった連合艦隊司令部も敵の来襲の危険に晒され、逃れるようにパラオ島へと撤退したが、遅れた艦や戦闘機は空襲により大量破壊された。
しかし、せっかく移動したパラオ基地も米軍の空襲と上陸の可能性が高まり、そこで指揮を執っていた海軍のお偉いさんたちはサイパンに停泊している2機の二式大型飛行艇を呼んでそこからダバオへ退避する計画となった。
1番機には連合艦隊司令長官の古賀峯一大将と参謀たちが乗り、2番機には参謀長の福留繁中将と参謀たちがそれぞれ搭乗することになった。
1番機の操縦士である灘波大尉はダバオへの飛行経験があったが、2番機の岡村中尉は飛行経験が全く無く、しかも詳細な航空地図を手に入れる事もできなかった。
岡村中尉は不慣れなダバオ行きにお偉いさんを乗せ飛行することに強い不安を抱いたらしいが、1番機の灘波大尉が「俺が先導してやるけん心配すんな」と励ましたようだ。
3月31日午後5時、サイパンに停泊中だった2機の飛行艇はパラオで待っている海軍のお偉いさん達を拾いに無事着水。
これから燃料補給に取り掛かるという時に雨が降って来た。
2番機の今西副操縦士はピトー管(速度計)が濡れないように丁寧にカバーをかけた。
突然、空襲警報が鳴り響いた。
燃料を入れる暇もなく、1番機は搭乗予定者を乗せると緊急離陸。
2番機も1番機に続きたかったが、お偉いさんがモタモタして全員乗るのに5分間もかかり1号機を完全に見失った。
岡村中尉は嫌な予感通り独力でダバオに向かうことになってしまった。。。
悪い事は重なるもので、パラオを飛び立ち1時間後、岡村中尉の操縦する2番機は低気圧の真っただ中へ突っ込み激しい雷雨に飲み込まれた。
進路を調整し、なんとか墜落を免れ低気圧を通り抜けるとようやく陸地が見えた!
島の輪郭から機内に置かれた地図と照合するとそこはカミギン島だった。
ぜひ死ぬまでに1度は行ってみたい島💕#カミギン島 #Camiguin #フィリピン https://t.co/R0FO4cmPi9
— モト ボサツさん@国籍間違われた (@motobosa02) January 30, 2021
位置的にはミンダナオ島北部のカガヤンデオロとボホール島の中間地点。
乗っていた福留参謀長と小牧航空参謀は安全を期して北のマニラへ向かうように指示したが、燃料の残量が少なすぎる。
しかし、南のダバオへも到達できそうにない。
カミギン島からほど近いセブ島には海軍の基地がある。
結局、一旦セブ市付近の沿岸に着水する判断となった。
4月1日午前2時45分、2番機は着水開始。
そこでピトー管問題が発生する。
カバーがかかっているので速度を示すピトー管が機能せず、高度も正確に分からない。
運悪く夜間で全く水面が見えず、2番機はセブ島のナガ沖へ墜落してしまった。
その様子をセブ島の現地ゲリラが見ていた。
乗組員21名のうち13名が生存し岸へ向かって泳いだが、途中で何名か死亡したり、行方不明となり、最終的に9名だけが生き残り、沿岸付近でカヌーに乗った現地人に救助された。
しかし、その現地民はゲリラの一味というオチで捕虜として捕まってしまった。
軍人は捕虜として捕まるのは最大の恥という時代。
海軍はこの事件を知り、セブに駐屯する陸軍にバレないよう隠密で生存者およびZ作戦と呼ばれる機密資料の捜索にあたったが発見することは出来なかった。
海軍の捕虜事件とは別に、たまたま4月8日、陸軍はセブ島ゲリラのトップであるクッシング中佐の捕獲と米軍通信用の無線装置を破壊するための討伐作戦が開始した。
陸軍の大西大隊長の部隊は4月10日、セブ島のゲリラの主要基地を包囲することに成功した。
これから攻撃を開始するという時にナガ沖に墜落した2番機の操縦士をしていた岡村中尉が現れた。
ゲリラの服を着せられ日本人かどうかも見分けが付かないほどボロボロで発見当初はかなり怪しまれたらしい。
岡村大尉はゲリラの伝令として海軍参謀たちを開放する代わりに陸軍の攻撃を中止せよという条件を持ってきたのだ。
陸軍の大西大隊長は司令部に打電し、指示を仰いだが全く返事が来ない。
海軍参謀の命を優先し、ゲリラの要求を飲むことにした。
岡村大尉からゲリラへ条件を飲む意向を伝えさせた後、午後8時に司令部から返電が届いた。
「要求を受け入れず攻撃せよ」
しかし、大西大隊長はゲリラのクッシング中佐への約束を反故にする事は軍人として許されないと司令部からの命令を無視することに決定。
ゲリラから福留参謀長を含む海軍参謀達が開放され、一件落着かと思ったら、そこから日本軍史上最大級の問題を招くことになるのだ。
福留参謀長が持っていた「Z作戦」という機密書類はクッシング中佐を通じてアメリカ軍の手に渡った。
セブ島の南部に浮上したアメリカの潜水艦が機密書類を受け取り、そのままオーストラリアの基地へ直行。
そこで丸ごとコピー及び翻訳され、戦艦の名前や燃料の量、官長の名前まで全て把握されてしまった。
日本側がZ作戦の内容を変更すると都合が悪いので、資料は防水ブリーフケースへ戻され、何事も無かったかのようにセブ沿岸に流された。
その機密情報の漏洩により、その後のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦で日本軍は大敗。
海軍は福留参謀長の失態が広まるとマズいので、軍法会議で罰するどころか謎の栄転。
第二航空艦部隊司令長官に就任し、捕虜疑惑を無理やりもみ消し。
終いには「ゲリラはアメリカ軍じゃないので捕まっても捕虜ではない」という理屈を通した。
「お国の為」と言いながら、結局は個人のメンツや我が身の保身が大事で、上手く大義名分を掲げながら老兵は死なずという言葉通りとなったのだ。
福留参謀長は本来なら、海軍の「俘虜査問会規定」により査問にふされ、軍法会議にて死刑となっていてもおかしくない。
しかし、東京裁判において戦犯に指定されが英軍戦犯としてわずか禁固三年となったのみで1950年(昭和25年)に復員し娑婆に出る。
その後、旧海軍高級士官グループの一員として、「海軍の伝統」を保持しての再軍備を目指す活動を行い、後に水交会理事長も勤めた。
1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問に就任。
まとめ
セブ島というフィリピン第2の都市は、今でこそ語学留学やダイビングの目的地として平和な常夏の島という印象しか残っていない。
セブへやってくる日本人の中で、セブ島がかつて戦争の壮烈な舞台であった事を知る人はもう少ないだろう。
フィリピンはCやK国のように今更戦争の犠牲者として日本人を憎む教育を施すことで国家アイデンティティを構築するような卑怯なことはしないが、こちらが思っているほど親日ではない気がする。
まだ20代前半のフィリピン人女性英語講師から面と向かって日本軍がかつて行った残虐な歴史を指摘された事がある。
ことさらこちらから戦争の事実を話題に出すこともないが、うっかりそういうケースに遭遇する事もあるということだ。
私が2013年から日本語教師をしていたセブノーマル大学の建物は、かつて日本軍の憲兵隊の基地として使われていたという事もあり、大学内の博物館には日本軍とアメリカ軍の遺品が展示されている。
事務局の壁に戦時中の面影を残すメッセージが残されていたり、階段の踊り場に錆朽ちた兵器が置いてある。
セブへ渡航する前に史実を理解した上で現地民と親睦を図る方が、相手へのレスペクトも含めより親密な交流が図れると考える。
もしこの記事がお役に立ったらランキング応援クリック1回強めにお願いします!!