〇〇には好きな言葉を当てはめてください。
「同情するならオカニくれ」
日本テレビ系列のドラマ「家なき子」で当時12歳だった安達祐実が放った超有名なセリフだ。
フィリピンには安達祐実顔のフィリピーナが多いのだが、今回の話題はそういう方向ではない。
そうさのぉ、あれは30年ほど前のこと。
まだ私の髪がフサフサでモテモテだった頃の事だ。
理由は忘れたが、大学の友人から「可哀そうに」と言われたことがある。
言った側は窮地に立ってる友人への同情を示す友好的表現だという意識があるのだろうが、言われた私はその時非常に嫌な気持ちになってしまった。
なぜ嫌なのかはっきり分かった。
完全に上から目線。
可哀そうという言葉は無責任な表現で、自分は安全圏にいるということが条件だ。
そして言い放って自動的に終わってしまう。
言った側は困ってる人へ体よくお悔み申し上げて「俺って優しくいいひとだ」という自己満足にさえ浸るのだ。
私はそれ以来「可哀そう」とか「気の毒に」という言葉を言わないようにして生きてきた。
この事はなかなか理解してもらえないのだが、たまたまフェイスブックで目にした新聞記事の投稿で私が言いたいことをダイレクトに言っているものを発見した。
足をけがした6歳の息子が「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」と言った。
片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから「あんな足で歩かせて可哀想に」という会話が聞こえてきた。
息子に妹ができ、おむつを買いに行った。「僕が持つよ。お兄ちゃんだから」と頼もしいことを言ってくれた。任せたら「あんな小さな子供に荷物を持たせて。可哀想に。」
という一言で全否定された気がした。「可哀想に」という人は自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。
しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。そのことを知ってほしい。
ところでフィリピン人は残念ながらこの「可哀そう」という言葉が大好きだ。
タガログ語ではKawawa(カワワ)、ビサヤ語ではLuoy(ローオイ)。
本当に会話の中でよく耳にする。
この新聞投稿をした望月さんが仰っている通り、薄っぺらい表面上だけの関係性が生み出す無責任なExpressionだ。
言い放った側は思いやりのあるいい人になった感じで気持ちがいいかもしれないが、言われた側はある種の差別を突き付けられ、そして冷たく放置されるだけ。
安達祐実が言った「同情するならオカニくれ」は全くもってこの世の真理だ。
本当に同情するなら身銭でも切ってある種の痛みを共有してみせろということなのだろう。
安達祐実は顔はフィリピン風なのに立派なことを言ったものだ。
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