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フィリピン生活とは日々終活
物質的な贅沢を求める「金儲け情報」にはわんさかと凡人が群がるが、生きるための情報はあまり人気がない。
その現実を俯瞰しつつ妙な快感を感じる私はやはり一種の変態だろうか?
30代後半でセブ島に流れ着いた私も気が付けば50歳を超えている。
フェイスブックの写真は当時のままなのでそろそろアップデートすべきなのだろう。
今回年貢の納めとして正式に結婚しフィリピン共和国のレコードに記録を残したのだが、私にとってそれは終活イベントだ。
沢山生まれて沢山死ぬ国フィリピン。
これまで多くの出会いと別れがあった。
一方、漠然と100歳まで生きると勝手に思っている日本人達。
死とほど遠い日本という特殊な国気付かなかった事は人間は死ぬために生まれて来たということ。
誰かの死があってこその生。
つまり死とはネガティブなことではないのだ。
そのことに気づくのに50年かかった。
本来ならば人間も動物の端くれで、死体は朽ちて他の動物や微生物の養分となるはずだ。
死者を埋葬することでその事実が隠蔽されてしまっている。
若い頃は死というサウンドや概念を感じる事は怖かった。
自分の親が死なないように霊柩車が通ると親指を隠したりしたもんだ。
最近では死という究極の存在に積極的に直面し、色即是空という言葉の意味を半分飲み込めている気がする。
ただ生きて死ぬだけ。
そこに意味を求めないのが決して人生をネグレクトするのではなくむしろ生を素直に感じながら生きることになる。
ガン闘病生活を健全に伝える沢木和也氏 俺はまだガンになったことがないが、一緒に闘病生活してる気分 そして自分の健康という奇跡に果てしなく感謝する日々👍 https://t.co/EP6bWx3BAD
— モト ボサツさん@子供と成長中 (@motobosa02) December 4, 2020
私はガン闘病をしている人のツイートをフォローするのがライフワークなのだが、AV男優沢木和也氏もその一人だ。
ガンの闘病生活の日々の様子や心境を堂々と晒している。
全く面識もないのだが、彼の毎日を一緒に闘病生活しているつもりで見ているひとりだ。
うちの母方の先祖はガンで亡くなっている。
私も間違いなく70歳前後でガンを発症しなくなる予定なのだが、勝手に余命がはっきりしてから自分の人生は別の輝きを持った。
ガンと闘病している人は皆私の大先輩という存在でレスペクトしている。
私がティムと9年間生活を共にし事実婚は成立していたはずだが、今更なぜ結婚したのか?
判事には言わなかったが私にとって終活の一大イベントだ。
カワイイちゃんとティムに私の苗字を提供することで日本とフィリピン両方の人生の選択することが出来る。
まるで死期が迫ったような話をするとシニアの先輩達からは必ずこう言われる。
「ボサツさんまだ50代前半だろ?俺はその頃死ぬなんて1㎜も考えず徹夜で麻雀したり遊びまくってたよ」
昔は人間の寿命は最大でも50年で、下天(げてん)は我々のいる世界とは時間の流れが違う天界という壮大な世界を指す。
そんな下天と比べれば、人の一生なんて夢や幻のように儚い。
宇宙規模で見れば人生の長さは肉眼で見えないほど一瞬なのだ。
敦盛を舞った織田信長の時代はとっくに過ぎており、日本人の平均寿命は男女とも80歳を超え世界トップレベル。
稀に読書好きなフィリピン人がいるが、村上春樹の本を愛読しているフィリピーナと会ったことがある。
ノルウウェイの森も既に読んでおり、彼女が最も感銘を受けた部分は「死は生の対極としてではなくその一部として存在している」というくだりだったとか。
Death was not the opposite of life. It was already here, within my being, it had always been here, and no struggle would permit me to forget that
生きるという部分に感性が向かうのはフィリピン人らしさなのかもしれない。
私は昔から親や先生に「悲観的な一面がある」と言われて来たが、自分では人生ってやつを一段階深堀りしていると自負している。
もっと若い頃に自分の人生を72歳付近に設定していればもっと有意義で濃い人生を送っていた気がする。
つまり終活は早ければ早いほど良いと思っている。
人は何気ない日常のシーンを永遠続くと思ってしまうものだ。
有限の命だと思えばこそ失敗を恐れている暇などないと思えるだろう。
少し脱線してしまったが、終活としての結婚を終えほっとしている。
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