縁やお蔭様という日常で使っている言葉は元々仏教用語。
人間は生きているのではなく生かされているらしい。
縁はそんな自分の意思の及ばない仕組まれた何か運命論的なものに基づくものである。
私がセブへ流れて来たのも縁。
そしてセブの大学で日本語を教えるようになったのも縁。
お蔭様で幾つかの気付きがあった。
中でも一番大きかったのが言語がマインドを作るという事だった。
言葉は単なる伝達ツールではない。
フィリピン語を話し、ピュアにフィリピン人のマインドのままの連中に、日本人の常識を押し付けても無理。
日本語を教えるという事は単に文法や発音のような単なる知識や技術ではなく、すなわち日本人というものを教える事だろう。
言語は文化やマインドの象徴であり、日本語を話す事で日本人に近づくという意識が必要だと感じる。
日本語の上手いフィリピン人が約束を破ったり、いつも遅刻したりするとかえって胡散臭い。
マインドがフィリピン人のままでは日本語が話せても全くその価値がないだろう。
日本人の責務は単に発音や文法をより正確に伝えるという技術的な事のみならず日本人として日本人マインドを如何に抽入することである。
その日本人らしさを突き詰めるとある言葉へたどり着く。
”空気を読む”
このアプリが非常に面白い。
この空気読みアプリの内容がいわゆる日本社会で求められている常識の寄せ集めなのだろう。
これを普通のフィリピン人にやらせると基本ゼロ点。
それだけフィリピンと日本のベクトルは真逆。
フィリピン人が悪いというより、それだけ違う方向へ向いている国どうしという理解をしたほうが良い。
電車の席。
自分の権利だけを追い求める国のマインドでは人に何かを譲って全てが上手く収まるバランスを考える必要が無い。
エスカレーターで後ろに急ぐ人が居ても絶対気が付かない。
フィリピンのオートバイのミラーは後方確認をするためのものでなく自分の顔をチェックするために存在する。
サンタクロースが来た時に彼の為に寝たふりをするなんて不可能。
普通に起きて自分のほしい物をダイレクトにリクエストするだろう。
極め付けは皆さん生黄色い泡の出る液体頼んでいるのにライス注文する。
超フィリピンあるある。
CANの国でHAVE TOとうMな事を分かってもらうのは辛い。
フィリピン人にとって最も謎なのが謙譲語。
へりくだる。
なんで?
士農工商という微妙な身分社会が作った不自然な言葉だ。
歴史が深い程ことばの難易度は高くなる。
しかし空気を読めるようになる日本語トレーニング。
そのカリキュラムが作れたら幸いである。
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