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想い出のシーンが蘇る
外付けハードディスクの中を整理していると7年前の懐かしい写真が出来てきた。
ちょうどセブノーマル大で日本語を教え始めた頃だった。
本ブログのシーズン1にあたる『モトボサツ勝手にブログセブ島編』はまさにセブの大学という日本人にとって超アウェイな世界を描く奮闘記的な内容が多かったのだが、私としてはぜひ疑似体験として楽しんでもらえたら幸いだと思いがあった。
ちなみに、私が参加している「日本ブログ村」のアイコンも当時の生徒だったジェサに黒板の前に立ってもらい撮影したものだ。
あの子は誰?
ブログ村で使っているアイコン(本人承諾済)https://t.co/5xYqpCbyCg
大学の教え子ジェサ いつも元気に日本語で挨拶してくれる元気の良い娘だった 当時19歳
今は母親になって幸せそうに暮らしてます😌 pic.twitter.com/6G7xQbf8XB— モト ボサツさん@子供と成長中 (@motobosa02) June 5, 2020
ブログ村のアイコンに使うということに承諾を得たのだが、本人は意味がよく分かっていない可能性が高い。
ちなみにジェサという名前はおそらく現在の20代のセブアナ(セブの女性)で最も多い名前なのではないだろうか?
一クラスに生徒が40名ほどいたのだが、その中に3,4名ジェサがいた。
本名がかぶってしまうので「マイマイ」とか「クリンクリン」のような2回同じ音を繰り返す謎のフィリピン流ニックネームで呼ばれており、私も出席を取る際にはそのニックネームを使っていた。
ちなみにフィリピン人の名前はジェサやジェニーアメリカーナな名前で、グロリアやグラシア、アナ、マリアは南米と同様スパニッシュなネームなのだ。
親が経験なカトリック教徒だと子供はクラシックな名前になる傾向にある。
黒板の前に立つジェサは当時19歳だったが、今では2児の母となり幸せに暮らしているようだ。
彼女は日本語の発音が抜群に上手かった。
それは私の指導ではなく完全にアニメの影響。
自分のクラスの生徒のみならず、私が廊下を歩けばフィリピン人らしく元気に声をかけてくる生徒が多い。
しかも日本語!
その大半は「オタククラブ」に属する生徒で日本のアニメに興味がありセリフに忠実に覚えるのでこちらがびっくりするほど発音が完璧。
しかし、文法や文字に関しては全然わかっておらず会話にはならない。
アニメのセリフで気になった部分のみを模写して使って楽しんでいるのだが、日本語ネイティブスピーカーの私としてはいかにもテキストブックに沿って覚えた不自然な日本語と発音より、純度100%のアニメからの引用の方がインパクトが強く好印象だった。
英語もきっと同じで、勉強して覚えたセンテンスをカタカナ発音で話すより、聞いたまま覚えたスラング混じりの崩れた英語の方がネイティブスピーカーからの評価は高いのではないだろうか?
ところでこのセブの大学で日本語を3年程教えたのだが、私にとってそれはシーズン4だ。
ここで私のフィリピンライフをシーズンごとに整理してみよう。
シーズン1
私がセブへ移住した最初の地はセブ市とタリサイ市の境にある通称ジャングルでフィリピンにいるというより山奥にいるという意識で生活していた。
不法占拠の集落にいる村人はフィリピン人というよりもどこかの部族といった感じだった。
山の中の人々は裸族に近く男性は上半身裸で女性は下半身裸(←うそ)が基本だったのだが、私も山にいる時は露出度の高い恰好で生活しそれが最高に自分に素直になれた。
あのガチガチな30代の自分がまさかこんなにワイルドになれるとは自分でもびっくり。
山の中は血が濃くなるのかセブシティよりはるかに美女率が高く、スペインを彷彿させる情熱的な目をした少女とすれ違うとドキっとしたものだった。
2年に及ぶジャングル生活が私にとってフィリピン生活シーズン1だ。
シーズン2
山を下りて韓国資本の語学学校にインターンとして居候をしたのが今のセブ生活の先駆けとなる。
それはでは一生懸命ビサヤ語を覚え生活の中で使っていたのだが、語学学校という英語を教える学校に身を置くと英語での会話が基本となってしまう。
しかもその学校には英語ネイティブが3名もいてアメリカ、カナダ、イギリス人から英語を習う事ができたのだ。
韓国資本の語学学校では英語ネイティブが何名いるのかということがステイタスだったのだ。
私はカナダ人講師のジェフと仲良くなり毎晩マンゴでビールを飲み、ビキニバーをホッピングしながら第二の青春を満喫した。
私の英語はフィリピンではなくカナダ仕込みだと自負するのはそういった歴史が背景にある。
シーズン3
ここからマニラでの生活となるのだが、私が最もフィリピンナイトを満喫したとても想い出に残るエピソードを残してくれた。
元フィリピンパブ中毒者M氏との共同生活で世界にはこんな楽しい生活があるのかと日本で閉塞的な生活に閉じこもっていた自分が哀れに感じた時期でもある。
このころはタガログ語の練習に夢中になり、それまで元カノTに教えて貰って使っていたタガログ語がかなり変だという事が分かりショックを受けた。
今更当たり前だが、セブアナにタガログ語を習ってはいけない。
九州の人から大阪弁を習うのと同じ位無理がある。
そんな事も知らずにフィリピン人はみなタガログ語が話せると勘違いしていた若き日の俺。
私以外に被害者が出ないようにこのことは繰り返し伝えて行きたいと思いながら強く思いながら生活している。
シーズン4
その後、日本の某保険代理店のセブ駐在員となったのだが、扱っていた海外のファンドが次々と飛んでしまい、セブ支店は1年で無くなってしまった。
私はその後、引き続き個人でフィリピンの保険を販売しながら生活を始めた。
それと同時にセブノーマル大で英語の教授をしていた友人から大学で日本語を教えてくれと頼まれた。
私は日本人だが日本語教師の資格はないと一旦断ったが、授業は1ヵ月前に始まっており先生が来るのを待っているという。
おいおい、なんと上手い落とし方なのか。。。
私は断る理由を失い早速翌日に大学を訪れた。
私が勤めた大学はステイトユニバーシティと呼ばれる国公立大学で職員は基本的に公務員となる。
学費は年間たったの6000ペソ(12000ペソ)で公立高校で優秀な成績を収めた学生がやってくる(生徒談)という存在だった。
日本では悲しいかなフィリピン人の子供は全て発達障害という目で見られてしまう事もあるようだが、ここの学生の中には飛びぬけた知能指数をもつ天才児がいた。
シーズン5
一緒に住んでいたティムがカワイイちゃんを生み、現在の生活のベースが出来た。
フィリピンでは子供がいる家庭ではヤヤ(メイド)を雇うのが習わしで、最初はバコロドに住むティムの妹や母親が来て手伝ってくれていたが、そのうち地元へ戻ってしまい、代わりに16歳のジェンがやってきた。
ジェンは最初は田舎の素朴な子だったのだが、だんだんとレイジーになり最後はフェイスブックで知り合た男に送金をしていた。
ティムの服を勝手に来て出かけ、最後は私の財布にも手を付けて消えた。
シーズン5はジェンを含む12名のヤヤをめぐる奮闘記だった気がする。
移住していたばかりの日本人に「ヤヤを紹介して貰えますか」と言われるとこれまでの苦難が走馬燈のように蘇ってしまうのだ。
まとめ
フィリピン生活はまだまだ続くのだが、これまでそれぞれのシーズンで日本とは別世界の環境で精いっぱい生きて来たつもりだ。
時々ふと思い出す各シーンの中で私を通り過ぎて行った麗しきフィリピーナ達との想い出を中心に臨場感を交えながら綴っていけたら幸いだ。
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