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8月に原爆が投下されことを1㎜でも思い出した日本人がどれくらいいるのか?

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傷みを忘れない

私は長崎市出身で、毎年8月になると原爆による悲劇を生存者の方から伺っていた。

私が小学生だった頃の先生の中には実際に長崎に投下された原爆により被爆した人もおり、太ももにある大きな火傷のあとが今でも記憶としてはっきり残っている。

定年間際の女性の先生が放射能が原因による白血病で亡くなった。

とても衝撃的で悲しかった。

そうやって、昭和40年代生まれの私にとって生存者を通じて原爆の傷跡はかなり直接的であった。

しかし、時は過ぎ、海外で生活を始め十数年が経過すると、あの悲惨で痛ましい原爆投下という出来事が記憶の中で確実に薄くなりつつある。

広島、長崎の原爆投下の悲劇に関して8月に1㎜でも何かを考えた日本人がどれくらいいるのか疑問だ。

唯一の被爆国日本は世界に核廃絶を訴えていかなければならないと取ってつけたような綺麗ごとだけがやたらと聞こえてくるが、いったいどれくらい本気なのか甚だ疑問。

2015年の調査によれば、身近な人が被爆したという30代未満のケースは広島市が46%、長崎が50%。

あと10年もすれば近親者を通じて知る原爆の記憶はどんどん消えていく。

ふだん原爆の話題をするかという問いに対し、「よくある」広島5%、長崎6%、「ときどき」広島26%、長崎29%、「全くない」広島24%、長崎23%。

被爆地でさえ3人に2人は原爆のことを全く話題にしないという事実。

 

もっと怒れよ日本人!

県庁職員、ゲバラの問いかけに「ぎくっとした」
ゲバラらが原爆慰霊碑に献花する姿を、中国新聞のカメラマンが撮影している。花を手向けるフェルナンデス大尉の後ろで、戦闘服姿のゲバラはうつむき加減で直立していた。その後、一行は原爆資料館を約1時間かけてじっくりと見学した。

ゲバラは館内のさまざまな原爆被害の陳列品を見る中で、それまで無口だったゲバラが、不意に通訳担当の広島県庁職員の見口健蔵氏にと英語で問いかけたことがあった。

「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」

ゲバラが原爆の惨禍に憤りをみせた瞬間だった。三好徹氏の「チェ・ゲバラ伝 増補版 」(文春文庫)の中で、見口氏は「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています」と回想している。

「平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い」
広島訪問時、ゲバラは妻のアレイダに宛てて絵はがきを送っている。毎日新聞によると、そこには以下のように書かれていたという

外国人から不思議に思われるほどプライドを無くし、原爆という大きな犠牲でさえアメリカの機嫌をとりながら容認している。

経済大国ボケと言われる程に経済的な豊かさだけを追い求め、人間としての尊厳をすっかり忘れてしまったのだろうか?

私はセブ島のジャングルで生活をし、戦時中にフィリピンにて日本の兵隊さん達が苛酷な環境で戦わなければならなかった悲劇を痛感した。

またセブノーマル大で働きながら、校内の博物館に並べてある血の付いた遺品をみて戦争の痛みを疑似的に味わった。

綺麗な日本にいたら戦争という過去の悲劇と人間という悪魔の側面をないがしろにしていたはずだ。

米中の関係が悪化し、また悲劇が繰り返される恐れを強く感じる。

被爆者が体験した原爆の悲劇。

75年経っても消えない放射能による苦しみ。

核兵器の非人道性を訴える役割が日本にあるというが、全くそのパワーや資質を今の日本に感じない。

それよりも、米中から独立し、日本人としての尊厳をいかに回復させるのか

真の独立について一人一人が意識することが大切だと感じて止まない。

 

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モトボサツ

2年のセブ島ジャングル生活を経てビサヤ語を習得。その後タガログ語も同時に習得し、最後は英語という逆ばりメソッド。現在生命保険、医療保険コンサルおよびビジネス通訳を兼ねる。元セブの大学にて3年間ストリート系日本語教師の経験あり。

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