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ランキング大好き日本人
日本の常識は非常識という表現を初めて聞いたのは10年程前だったか。
海外で生活をしていると、日本の常識の特殊性に気付いてしまうことが多々ある。
「富士は日本一の山♬」
非常に有名な歌だ。
この歌の歌詞に象徴されるように日本では日本一とか世界一という表現を頻繁に見聞きするが、つまり日本人はランキングが大好きなのだ。
偏差値、人気企業を始め、フィリピンブログ人気ランキングも気になるところだろう。
ところでセブで抱かれたい男ランキングが発表されるとどうだろうか?
https://overseas.blogmura.com/philippine/ranking/in?p_cid=10773365
きっと例外なく興味がほとばしるだろう。
私が女性なら絶対に見たい。
こうやってランキング情報には興味が疼いて止まらないのだ。
ブログを書きながら分析するに、ランキング系の記事は簡単にPV(ページビュー)が取りやすいのも確かだ。
しかし、ランキングは対岸の火事であり、勝者と敗者を創り出す残酷なシステムでもある。
海外ではNo.1という表現を避ける
実は日本以外の国ではランキングを晒すことを嫌う傾向にある。
7年前、日本へ一時帰国した際、ローソンで週刊誌を立ち読みしたのだが、その際にふとフィリピンの情報が目に入った。
トピックは「日本の女性管理職率の低さ」だったのだが、その記事に添付されていた表にはなんとフィリピンの女性管理職率がアメリカを抜いてトップに輝いていた。
これはネタとして頂きだ!
フィリピンがポジティブな方面で世界一というカテゴリーはなかなか稀なので、暫らくこのネタを頻繁に話題として出していた。
当時セブ市内で通っていたスポーツジムで顔なじみになったアメリカ人の爺さんとカフェでコーヒーを飲んでいた時にこの話題を出してみた。
以前、彼には私の英語表現にもし違和感があればぜひ訂正して欲しいとお願いしていたのだが、早速彼は私の話を聞き終わるとこう言った。
「ところで、英語ではNO.1カントリーという表現ではなく「Leading nation」って言うんだよ」
具体的なランキング表現はあまり好ましくなく、「reading」 は 「one of the great」 みたいな表現をすべきだと説明された。
言語は文化の象徴。
私はその時に深い感銘を受けた。
日本では日本一とか世界一に象徴されるよう物事のランキングに大変興味を示すのだが、アメリカではあえてぼかす。
あの会話が引き金となり、自分の人生を疑いの目で振り返るようになった。
私は小学校生活が苦痛で仕方がなかった。
夜中に北朝鮮からテポドンが落ちてきて壊れてしまえば良いとさえ思った程だ。
日本の小学校とは勉強をする場所であり勉強に興味がない成績の悪い子は「ボンクラ」と呼ばれ子供社会のゴミ。
勉強嫌いな私はクラスでも成績底辺で先生からも親からも価値の無い人間のような扱いを受けてしまう。
この生き地獄から脱出するには興味の有無に関係なく、試験の点数で他人に勝つしかないと小学校5年生の頃に悟った。
中学校に入る手前に近所の知り合いの精神科医から中学でいきなりトップになるための英語のレッスンを受けた。
楽しむための英語ではなく、点数を取るためだけのメソッド。
もう屈辱的な扱いは御免だ。
中学の最初のテストで思惑どおり英語の成績は通りトップ3に入った。
今度は競争によって天国を味えた。
他人より勝ることが人生の目標となった。
昭和43年生まれ。
高校3年の時の偏差値で進路が決まるという不思議な世界。
理系の成績でトップだと難易度の高い国立医学部へ行く。
医者になって病気やケガで苦しむ人の役に立ちたい人が行くのではない。
残念ながら教育学部へは子供へ夢を与えるとか親切に何かを教えるのが好きな生徒ではなく偏差値がやや低めの生徒が進学する受け皿だった。
職に貴賎なし?
嘘だ。
同じ先生でも医者は素晴らしく、学校の先生はそうでもないみたいな価値が生まれてしまうのだ。
実は私に英語を教えてくれた精神科医がこういう事を言っていた。
「学校の先生より俺の方が成績良かったんだからお前ラッキーやね」
学校の先生がレスペクトされない理由。
それが日本の現実なのだ。
日本の学校は修羅の場
とても印象的な動画を観た。
フィンランドの小学校の校長が日本の学校へ視察へ来て、マラソン大会を見学中に辛口コメントをさく裂させる。
>順位を付けたり上位を表彰したりすることはあるか?
1位から何位までか決めて賞状を用意してます。
>正直ガッカリです。運動はそもそもいい物なのに競わせることで運動が得意じゃないことはビリという烙印を押されてしまう。それでもう運動はやりたくないと思うようになるのではないですか?
一人一人に自分の目標を持たせています 努力の過程を学校で評価をしてあげている
>やはり納得できませんね。順位が上がったからってそれが何なんですか?
自分の力を克服し自分と闘うことに意義がある。
勝者と敗者が生まれる社会
先に挙げた日本一や世界一等、そのまま英訳すると違和感のある表現となる日本独特の思考がある。
たとえば就活や婚活もその一つだろう。
小学校の頃からランキング漬けにされ、優劣中毒になっているのだ。
高いワインと安いワイン。
高級ワインを美味いと言わないといけない強制力が機能する。
安いワインの味が好きだと言えば安い人間だと思われてしまうかもしれない。
自分の意見が言えない。
人生の主人公は自分ではなく世間体なのだ。
そのうち自分という正体を完全に失ってしまう。
SNSの中でも目立つのが派手な経済的成功者。
「デカい事をやろうと思う」という意味不明なつぶやきに「いいね」が2000以上付く信者達。
世間が作った理想的ベンチマークが唯一の神となり、自分は常に彼を頂点とするヒエラルキーの下でひれ伏す。
〇〇あるべき論。
私がセブのジャングルせ生活した経験は、世間の常識から外れる実績を作ることに成功した。
お陰で親とは疎遠になったが1㎜も後悔していないどころかこの経験が誰かを救えるような気さえする。
まとめと考察
日本人の人生は他人との競争に勝つことがプログラムされている。
マラソン大会での順位付けに疑問を持たない校長先生。
彼が悪いのではなく、誰が校長になってもほぼ同じことを言うだろう。
なぜならそういう人生で一生懸命戦って来たからだ。
小学校から大学まで試験の点数や偏差値というランキングの渦に巻き込まれ、社会に出ると今度は年収でランキングが決められる。
年収ランキングの低い仕事はいくら社会に貢献したとしても心の底から尊敬されない。
逆にランキングが上位者であれば刑務所へ入ろうとも新興宗教のように人格までも多くのフォロワーが付く。
出版物では競争社会で生き残る方法が目立ち、逃げる方面のものは殆ど見当たらない。
可能性はゼロだが、もし仮に日本の小学校にランキングが存在しなかったらどうだろうか?
努力目標がなくなり子供がダメになる?
少なくとも私は小学校が嫌いではなかったと思う。
偏差値に応じた職業選択を作るランキング社会。
自分の熱意に従って努力するという方向性を阻害し、それが歪んだ社会を作っている現況であると感じて止まない一方、自分の子供には良い成績を取らせたいというジレンマとどう折り合いをつけるか。
これが課題だ。
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