中途半端なタガログ語
私はフィリピンへやってくる前に日本で既にフィリピンコミュニティにどっぷりと浸かっていた。
毎週日曜日になると地元の某カラオケ店にその地域に住むフィリピーナ達が集まりフィリピン人カラオケパーティーが開催されるのだが、その幹事をしていたのが元カノTで、私も自動的に参加する格好となっていたのだ。
そこにいる日本人は私一人なのだが、フィリピン狂和国各地からやって来たフィリピーナ達の共通語は英語ではなくタガログ語だった。
実はフィリピン英語留学なんの歴史がまだ浅い。
今でこそセブ島がフィリピン英語留学のメッカとされ、フィリピン人は英語を話すというイメージが強引に結合されているが、タガログ語こそがフィリピンを象徴する言語なのだ。
フィリピン全土に7000以上の島があり、人が住む島ごとに言葉が異なる。
日本にいる物凄い数のフィリピン人の寄せ集めコミュニティでは英語ではなくタガログ語が共通語となる。
英語が公用語といってもそれは表面上の話で、首都マニラで話されている言葉がタガログ語である限り、英語がどう頑張ってもタガログ語にとって代わることはないだろう。
日本の片田舎に住むフィリピーナ同士の共通言語は英語ではなくタガログ語。
私は強引な感じでフィリピンコミュニティの一部へ組み込まれながら一人だけタガログ語が分からないのがとても悔しかった。
相手を自分に合わせさせる策士ではなく、自分が相手の流儀で戦うというやり方が昔から自分流。
毎週末行われるカラオケパーティーの席でタガログ語への興味と意欲が膨らんで行った。
印象に残った音を再現する。
基礎文法と単語から覚えるやり方ではどうにももどかし過ぎるのだ。
自分に必要なセンテンスだけを選んで覚える。
文法的な知識は結果論として後で辻褄が合うのだ。
実戦度100%のやり方にこだわった。
そして片言ながらタガログ語で基礎会話が出来るようになったころに初めてフィリピンという虎の穴に上陸したのだった。
目的地はマニラではなくセブ。
つまり元カノTがセブへ里帰りする際に同行する初フィリピンだった。
フィリピン航空で福岡からマニラを経由し、セブへ上陸するルート。
マニラの空港で見た便座のないトイレの景色は戦慄が走った。
時間はたっぷりあるという元カノTの説明だったが、空港で寛ぎはじめた途端名前を呼ばれた。
もうすぐ飛び立つという。
このフィリピン人ダイジュブ(大丈夫)なのかといきなり不安になってしまった。
始めてのフィリピンは衝撃の珍道中だったが、なんとかセブマクタン空港へ到着した。
お決まりのパターンで家族がジプニーを貸し切りずらっと迎えに来ていた。
しかし、セブへ初めて上陸した時にはあまりにもフィリピンの事を知らな過ぎた。
教科書通りの「マガンダンウマガ(おはよう)」が全く通じない。
発音が悪いのか?!
不思議に思って元カノTに聞いたらセブではタガログ語ではなくビサヤ語しか話されないという。
なぜそんな大事なことを言わないのかと泣きそうな顔をして訴えてみると、「あなたが聞かなかっただけでしょ」とあっさりかわされた。
フィリピン全土できっとタガログ語が話されているという思い込み。
自分らしいミステイクだ。
気を取り直してゼロからビサヤ語に取り組むしかなかった。
いままで一体何をやっていたのか俺は。。。
魅惑のマニラ留学
それはそれで人生3度目の新しい世界が楽しめたのだが、中途半端に覚えてしまったタガログ語が心残りだった。
元カノTに告げたところ、タガログ語だったらマニラの妹夫婦のところにホームステイしたらというオファーが出た。
妹夫婦がマニラの空港に迎えに来てくれた。
そして連れて行かれた所がマニラ最大最凶のスラム街トンドだった。
トンドがどれほど危ない地域なのか私はあまり知らない。
知らないことは強いことだ。
モリオネス通りにあるローカルジムに通い、ジムメイトが出来た。
トンドというスラム街にもそれなりの生活があり、早朝5時前から掃除がある。
ポイ捨てされたスナック菓子の袋やペットボトルが道端に散乱しているのだ。
別にオカニ(お金)が支払われるわけでもなく、綺麗好きな人が任意で行うのだ。
私はジョギングの準備運動を兼ねて早朝清掃部隊に参加していた。
隣で野菜店をしている人フィリピーノのオヤジと毎朝掃除が終わって言葉をかけるうちになんとなく仲良くなった。
歳の頃はそうあのぉ45歳位か。
若い頃は評判のポギ(グワポ)だったらしいそのオッサンには娘が年頃の娘が数名いた。
皆色が白くスパニッシュ感が飛び出した美女揃いだったのだが、母親は体脂肪率40%を超える巨漢でアジャコング的な外見をしていた。
このオバちゃんから生まれて来たのか?!
父親はアジャとは真逆で細面で優しそうだ。
近所ではポギ(グワポ)扱いされていた。
やはり娘は父親に似るといえるだろう。
マニラ最大最凶のスラム街で文字情報を一切使わない最高のライブ授業を受け私のタガログ語はメキメキ上達していった。
8月に元カノTが弟を伴いトンドへやって来た。
フリフリのスカートがトンドに激しく似合わない。
「あんた、よく生きてたね。こんなとこで?!」
彼女はまさか私がこんなスラムの真っただ中に住んでいるとは夢にも思っていなかったらしい。
自分でアレンジしておいてフィリピン人丸出しな無責任さだが、虎穴に入らズンバ虎児を得ず状態で短期間でタガログ語を脳の中枢に叩き込むことができた。
結果オーライ的に有難い。
朝の掃除に参加したのが最高の思い出となった。
S子の父親がトンドにいる
それから時は流れ、S子と成行きで関係を持つようになったのだが、S子は私がタガログ語を少し話せることを不思議に思っていたのでトンドでの経験を語ってみた。
すると顔色が変わった。
S子の父親は弩級のパロパロでS子が小さい時に女を作って出て行ったらしい。
そして、親戚から聞いた情報によるとマニラ最凶のトンドにいるということだった。
彼女は古い写真を持っていた。
母を苦しめた父を恨んでいると言っていたくせに写真を持っているとは。。。
やはり娘は状況がどうであれ父親のことを想うのだろうか。
まさかトンドへ連れて行けと言わないだろうなと思っていたが、胸騒ぎは現実のものとなった。
今度の週末にマニラのトンドへ連れて行って欲しいと頼まれた。
父親の消息がかなり中途半端でどこをどう訪ねてよいかもわからない状況で見つかるとも思えない。
さらに写真もかなり古かった。
フィリピンでは男の寿命は特に短い。
もう生きているかどうかも分からない。
私がトンドに滞在していたとはいえ、まさか元カノTの妹夫婦にS子の父親の消息探しを手伝ってくれなんて言えるわけもない。
唯一の頼りといえば当時使っていたSunoiのガラケーのメモリに入れてあったトンドのモリオネス通りで通っていたジムオーナーの連絡先だ。
フィリピン人の電話番号はコロコロ変わるのであてにできないが、もし連絡が付けば多少の捜索の力になってくれるだろう。
ところでS子は飛行機を怖がった。
あんな鉄の塊がまともに空を飛ぶわけがないという。
ウサミスの大学ではあんな鉄の塊が空を飛ぶわけがないと教えているのだろう。
S子は親戚を頼ってセブへやって来た時には船でやってきたらしい。
そういえばティムの母親はネグロス島とセブ島を行き来する際、飛行機は危ないからバスで行きなさいと指導していた。
公認会計士が飛行機を怖がる国。
フィリピンという国は40年前の日本ではなく、黒船の到来に騒いだ江戸時代に相当するのだ。
つづく
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