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つい先日、うちのティムからこう言われた。
ティムの仲良くしているスービック時代のアテDは日本に出稼ぎに行った元エンターテイナーで、いつか日本人と結婚して日本に定住する事を望んでいたのだが、今では一般的なフィリピーノと結婚しイロイロ市で生活しているのだ。
逆に日本や日本人に全く興味を示さなかったティムが私の登場で人生が変わり、今では子供までいるという人生の皮肉。
「ジャパゆきさん」の実情を暴露
フィリピンへ女遊びに来た日本人男性の定番セリフ。
「彼女たちは貧困過ぎて学歴も就職先もなく食うためにこの道に入ったんだよ可哀想に」
そう言いながら低額で買った体を好き勝手に触りまくる。
私の記憶の鮮烈に残っているのはマニラのトンド地区で出会った元エンターテイナーのフィリピーナ。
彼女には旦那と小さな子供が2人がいたのだが、エンターテイナーとして日本へ行き、その当時の写真の分厚いアルバムがテレビの隣に置いてあった。
露出度の高い煌びやかな衣装をまとってキラキラした笑顔。
客に肩を抱かれながら寄り添う写真ばかりだ。
まさかその女性が生ごみ臭の漂うマニラ最凶最大のスラムの片隅にいるとは知る由もない。
貧困というやむにやまれぬ事情で水商売や風俗の世界へ。
困窮犠牲者扱いされてしまうフィリピンのエンターテイナー達だが、実はフィリピンファンの都合の良いイメージにより悲劇のヒロインとして美化されているきらいがある。
今回は日本へ出稼ぎに来たが母国へ戻ってしまったフィリピーナのその後についてご紹介したい。
ティムがアテと呼ぶ2人のフィリピーナ
うちのティムは生まれ故郷であるネグロス島バコロド市を出て、一人マニラから170km北のスービックという元米軍基地があったフリーポート地域で働いていた。
その頃に同じ職場で出会ったアテJ、アテDと呼ぶ二人の姉貴分がいたのだが、どちらもいわゆる「ジャパゆきさん」上がりだった。
2人のアテはそのうちどこかの日本人を捕まえ日本へ定住することを強く望んでいた。
アテJは色白で細面なスペイン顔。
時々みせる艶めかしい仕草に妙な色気が漂う。
きっと日本だと旅館の若女将が似合いそうな雰囲気だ。
一方、アテDはフィリピンファンが最も喜びそうな全身エンターテイナータイプだ。
二人とも日本から引き揚げて来た後は大卒で日本語が話せるという能力を買われティムと共に某日系企業で働いていた。
実際会話をした時に感じたのが、彼女たちの日本語能力は一般的な「ジャパゆきさん」とは一線を画すレベルだったと記憶している。
一度マニラの知人に通訳としてアテDを紹介した事があったが、通訳ではなく愛人として付き合いたいと言われてしまった。
ジャパゆきさん
明治時代以降、九州島原などの貧しい女性が、経済的に繁栄する東南アジアの港湾都市などに送り込まれ、娼館で娼婦として働き、郷里に送金していた。九州ではこれらの女性を「からゆきさん」と呼んだ。日本から東南アジアへ渡った「からゆきさん」との対比で、アジア各国から日本(Japan)へ出稼ぎに来た女性に対し映像ルポライター山谷哲夫によって「ジャパゆきさん」という造語が生まれた。 WIKIより
高度成長期の後半、フィリピン人が日本で半年も働けば母国で家が建つという触れ込みで急速にフィリピン人がエンターテイナーとして日本へやって来た時代であった。
日本政府はフィリピン人に興行ビザを発行し、ダンサーかシンガーのいずれかの扱いがなされたが、私が直接で会っただけでも音痴すぎるシンガーもいれば踊れないダンサーも沢山いた。
タレントといいながらタレンティッドじゃない。
2007年からアメリカの物言いで人身売買防止の名目で興行ビザが出せなり、多くのフィリピン人達が出稼ぎ先を失った。
今では語学学校の英語の講師がその同じ夢を持って日本へ渡るようになっている。
私がフィリピン人と始めて関わったのは2005年、まさに最終便と呼ぶべき「ラストジャパゆき」のタイミングであった。
我が人生へ激震が起き、名古屋から九州北部のさびれた過疎地域へ流れついた。
知り合いもいない孤独の街。
お互いに傷をなめ合うような感覚で、あるフィリピーナと関係を結んだ。
名古屋での廃人生活から九州最北の街で別人として再起している自分にとって、フィリピン人に対する大それた偏見など微塵も無かった。
いや、むしろ自分の過去を綺麗さっぱり上書きするには打ってつけの機会だったのかもしれない。
孤独と自由が同義語だと知ったのは36歳
離婚してしがらみの無い見知らぬ土地へと流れ
日本なのに言葉も違う異国だった
孤独を共有できる外国人との付き合いが始まった
孤独という名の自由は毎日を緊張感のある冒険にした
そして最後はセブ島のジャングルでオリジナルな生活を始めた https://t.co/tLHSlrfJ2i
— モト ボサツさん@子供と成長中 (@motobosa02) May 3, 2020
ティムがアテと呼ぶ2名は憧れの国ジャパンで働きながら生活した経験から一般的なフィリピン人とは基準が違うという高い意識があったようだ。
- 朝からフレッシュミルク(コンビニの牛乳)が飲みたいね!
- 今更コーヒーに砂糖を入れないのよ!
- 風呂に入らないと疲れた取れないわ!
当時はまだ一般的にフィリピン人が気軽に日本へ旅行に出かける時代ではなく、その経験はまるで宇宙旅行並みにインパクトがあったに違いない。
「ジャパゆきさん」は日本という異次元の世界を経験し、またお金も桁違いに稼いだという自負からそれを鼻にかけ高飛車になる傾向にあった。
タンバイを連れ込んで日替わりホストクラブ。
マムと呼ばれ有頂天。
一般の人からすると鼻についてしかたがない。
だからポクポク(売春婦)だといって嫉妬交じりに嫌われる。
一方ティムは当時働いていた日系の会社の日本人から時々食事に誘われたりすることもあったらしいが、日本人に全く興味が湧かず付き合う可能性はゼロだっという。
ただ給料レートの良いどこか海外に出稼ぎに行ってみたいという漠然とした希望はあったようだ。
私が一番最初にティムを見た時の印象としては、「何だかツンと澄ましてとっつきにくそうな女」という印象があった。
生憎私は面倒くさがり屋なので、そういう難しそうな女を口説いて攻略したいというタイプではないのだ。
まさかその女性と将来セブ島で一緒に暮らし、娘まで出来るとは人生とは小説より奇なり。
勝ち組のフィリピーナ
ここ数年日本の芸能界で有名になっているフィリピンハーフ達。
ほぼ母親は「元ジャパゆきさん」であるようだが、日本へ残った勝ち組だもと言われている。
同じ日本へ行ったフィリピーナの運命の分かれ道。
フィリピンのボーイフレンドの元へ戻ったケース。
オーバーステイを見つかって強制送還されたケース。
様々な事情があるようだが、セブでもこれまでに母国へ戻った「元ジャパゆきさん」から何度かプロポーズをされた事がある。
月に5万円払うから書類上の妻にさせてくれと。
日本でチヤホヤされ、母国へ戻ると浮世離れした見た目に成金。
ちょっとしたスター気分だ。
特別な人になったようなパワーを感じる。
何でもできるように思ったが歳をとってきて普通の貧乏フィリピン人に逆戻り。
またあの栄光の日本の生活に戻りたい。。。
Sオバサンもその一人だった。
全員父親の違う子供のいる典型的なフィリピンシングルマザー。
日本へ戻って働くことを望んでいた。
3番目の息子の父親がアメリカに住む金持ちフィリピーノで毎月サポートがあるのだと盛んに自慢されていたが、実際の暮らしぶりを見ると何とも言えない感じだった。
まとめと考察
階級社会といわれるフィリピンだが、エンターテイナーとして日本へ働きに行くのは困窮しているが故という見られ方が基本。
もちろん過半数は貧困から脱出する夢のスペースシャトルとしてその道を選択したのだが、現地で出会う「元ジャパゆきさん」の中には地元の大学を卒業し、戦略的就職先として日本行きを志願したというケースが意外と多い。
Sオバサンの場合、カモテス島出身で実家に2度遊びに行き、子供の頃のアルバムを見せて貰ったが、着ている服や家を見ても極貧育ちというわけでは無さそうだった。
しかもセブ島にあるビサヤ大学を卒業した後で日本へ行っている。
英語もそれなりに流暢だ。
ティムの姉貴分の2名もイロイロ市の大学を卒業している。
彼女たちの意見を聞いたが、地元の大学を卒業しても月給1万ペソ(2万円)しか貰えない。
だったらエンターテイナーで夢の日本へ行くべしという前向きな選択がなされていた。
三度の食事が食べられない気の毒な境遇という美化がなされやすいが、意外とそうでないケースもある。
時々アテ2名からフェイスブックのメッセンジャー経由で皮肉めいたことを言われるらしい。
全く日本に興味も示さなかったティムが日本人と一緒に生活し、あれほど日本へ戻る事を切望していたアテが一般的なフィリピン人になってしまっている。
人生とは正に皮肉なものだ。
近いうちにティムがアテと呼ぶ2名についてぜひ記事を書いてみたいと思う。
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フィリピン関連作品
フィリピーナはどこへ行った
日本を去った「ジャパゆきさん」たちの人生を追う。
マニラから更に北に行くとブラカンという地域があるのだが、そこは別名「ジャパゆき」の郷と呼ばれている。
その辺にあるサリサリストアやカレンデリアと呼ばれる屋台のレストランでも中年のフィリピーナから突然日本語で話しかけられることは多い。
昔日本で働いていたエンターテイナーだらけだ。
なぜブラカンが「元ジャパゆきさん」のメッカなのかはあまりはっきりした情報がないのだが、情報筋によると有力なプロモーターがブラカンに存在し、そこから大量に日本へ送られたということだ。
「恋するトマト」
フィリピンの南部の田舎で農家の手伝いをするうちにそこ娘さんを好きになり妻として日本へ連れてくるというフィリピン好きな男のドリームだ。
2005年『恋するトマト』観賞。
大地康雄の企画脚本主演作。しばらくTVドラマであまり見かけないと思ったらこんな素晴らしい映画作ってたとは。日本とフィリピンの農業を題材に嫁不足や売春ツアー等の重いテーマを内包しながら展開も良く、秀逸なラブストーリーだった。ラスト、泣いちゃったよ。 pic.twitter.com/AOfNdIcGki— SAKA (@silverwaxrecord) July 16, 2020
実際、現地の人間からフィリピーナを妻にするなら絶対に田舎で探せと言われる。
非常にロマンのあるストーリーだ。