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さらばセブ、さよならS子
私は2010年から約1年間だけマニラで生活したことがある。
セブで付き合っていた読書好きで少々エキセントリックなS子とは感性というか行動のズレが多く、喧嘩にも似た摩擦が頻発していた。
そのたびに彼女の従妹がフェイスブックのメッセンジャーで仲介に入っていたのだが、そんなS子との関係にかなり疲れていた。
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【S子物語】田舎から出て来たフィリピーナあるある「デートの前に〇〇する変癖」
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S子の言動がいちいち気に障り始めた、別れの予感さえ感じていたのだが、その頃マニラで仕事の話が来たのだった。
そろそろ無給のボランティア生活も終わりにして少しフィリピンで働いてみるかという気になり、私はマニラ行きを決意したのだった。
元々何も持たずにセブの山奥へフラッとやって来た身だったので、どこへ行くにも旅行者のような恰好で移動できる。
ちなみにその頃のパンツの所持数は3枚だった。
マニラでどんな仕事をしたのかということは、その後の利害関係者も絡んでくる話なので詳細は割愛するが、S子とは自然消滅に近い形で距離を置くことになった。
マニラでの生活は楽しかった。
タガログ語の歌を聞きながら路地のスポットでビールを片手に体に悪いストリートフードをほおばる。
猥雑な雰囲気の中で若いフィリピーナがチラ見しながらプリ尻を見せつけて通り過ぎる。
今でもマニラ時代が最もフィリピン生活を楽しんだ時期だと確信している。
ティムと出会ったのは2010の11月だった。
たまたまマニラで知り合った日本人シニア女性がスービックの某日系企業へ行く用事があるというのでボディーガードとして同行したのだが、訪問先の日系企業で働いていたのがティムだった。
シニア女性の用事が住むまでマニラから同行したドライバーD氏と一緒に3時間ほど時間を潰すことになったのだが、彼はセブのタリサイで生まれ育ちビサヤ語での会話が可能だった。
何となく話が弾み、なぜかS子の話になった。
D氏は「こっちで新しい彼女を探せ」と言いながら「アレはどうだ?」とコーヒーを持ってきてくれた女性をおもむろに指さした。
なんだかツンとしていかにも日系企業で働いているフィリピーナ丸出しな感じだった。
それがティムだった。
私は「Ok ra」と軽く相槌を打ったのだが、これがまさか運命の引き金を引くことになるとは夢にも思っていなかった。
D氏は自らティムのところへ行きいきなり電話番号をゲットしてきた。
こう言う行動は日本人ドライバーだったら絶対に出来ないというかしないだろう。
フィリピンあるある!?
私は電話番号の書かれたその紙をポケットに突っ込んでシニア女性の用事が終わるのを待っていた。
スービックからマニラへ戻る道中ドライバーのD氏はさっきのババエにテキスト送ったのかと盛んに煽って来た。
どうやらフィリピン人特有の嗅覚というか連絡を入れるタイミングがあるのかもしれない。
私はとりあえず「Hello」とテキストメッセージを入れた。
「Who are you?」と事務的な返事が返って来た。
少々気後れしながら半分D氏のせいにしつつもメッセージを返した。
ティムからは「Is that so?」と冷徹な返事が返ってきていかにもツンとしたプライドの高いフィリピーナぶりをうかがわせた。
それから気が向くたびにテキストを入れるようになった。
当時まだ英語がビギナーで、タガログ語に英語をごちゃまぜにしてお茶を濁していた。
また、プライドの高いフィリピーナにはとことん下手に出る方が良いということに気付き、テキストを送る際には「ma'am」を必ずつけるようにしてみた。
週末ティムから食事の誘いが来た。
ラグナにいる従妹に会うことになったので途中マニラに寄るという。
パシッグにあるメガモールで待ち合わせをし、ティムのリクエストで吉牛にした。
日系企業で働くと吉牛に行くようになるのかよ?!
マニラの吉牛ではご当地麺ニューの弁当を食べている客が多かったが、吉牛で牛丼以外は邪道だと考え、あえて牛丼をチョイスした覚えがある。
その後、スターモール付近の生バンドのあるバーに行きビールを飲みながら話をした。
当時ティムはビサヤ語が全く話せず、会話は私の中途半端な英語&タガログ語で行った。
ほろ酔い加減になり、勢いで付近にあったリッチモンドホテルへチェックインすることになった。。。
それをきっかけにティムは週末の休みになるとスービックからバスに乗ってやってくるようになった。
マニラ時代にはビサヤ語ではなくティムとの会話を含めタガログ語がメイン。
夜になると実践英語研修と称し、外国人の集まるブルゴスのバーへ出かけ、常連のアメリカ人の爺さんと英語で話をするうちにインフルエンスされ、妙に英語に自信がついた。
そんな楽しい生活を送っていたのだが、ある日、職場で勘違いした頭のおかしい韓国人とモメ事を起こし仕事をスパッと辞めた。
なんだかセブが恋しくなった。
戻る場所はもう日本ではなくなっていたのだ。
セブへ戻ると付き合い始めたばかりのティムともお別れになるのだが、所詮異国でのアバンチュールだと自分の中で折り合いをつけた。
私が約1年のマニラ生活を終えセブに戻った時に一瞬ジャングルへ戻ろうかと思ったのだが、今更どの面下げて戻れるというのか。
結局住む場所が決まるまでSMシティセブ付近のSOGBOTELに暫らく身を置くことにした。
当時一泊250ペソ程度だったと思うが、タコ部屋の二段ベッドにトイレ共同で水シャワー。
それでもジャングルの生活よりは100倍快適。
しかし、SMモールまで歩いて5分程度という最強の立地が気に入って結局そこに2週間滞在してしまった。
当時SMにはフリーWIFIがちゃんと機能しており、フードコートに座ってノートパソコンをいじっていた。
フードコートに頻繁に出没している間にS子の知り合いが私を発見しS子に通報した。
フェイスブックのメッセンジャーでS子から1年ぶりに連絡がきた。
「あんたSMのフードコートに出没してるんだって?」
マニラで覚えた「ma'am」を使ってけん制。
「Kumsta man ka uy?(元気だった?)」というビサヤ語の挨拶に対し、私は私は全て英語で答えた。
マニラ帰りの俺はもうお前の知っているモトボサツではないという隠れたメッセージを伝えたかったのかもしれない。
SM付近に滞在しながら住む所を探しているという事を伝えると知り合いがやっている高級アパートがあるから紹介すると言って来た。
マクタン島で一カ月7000ペソ。
当時としてはちょっと高かったが、家具と調理道具付きでホテル形式で掃除もベッドメイキングもしてくれる。
なんと憧れのホットシャワー付きだ。
とりあえずそこに暫らく滞在することにした。
アパートの大家はマクタンのモールのフードコートで飲食店を出しているとかで、S子のクライアントだったのだ。
そういう関係もありS子がアパートに出没するようになった。
焼けぼっくいに火が付きそうだ。
アパートの大家の旦那というのがオーストラリア人で趣味でダイビングのインストラクターをしていた。
彼に強引に誘われ、柄にもなくダイビングに行くようになった。
S子とヨリが戻りそうになっていた頃、なんとティムから連絡がきた。
私は拒否する理由も見当たらずそんな返事をしてみた。
S子とよりが戻りかけた頃にこのタイミングで連絡が来るなんて物凄い嗅覚をしている。
ティムは結局1週間セブへ滞在し、私のアパートにも遊びに来た。
なかなか良いアパートだと妙に気に入っていた。
それが大波乱の幕開けになるとは誰が想像できただろうか?!
つづく
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